4.「子規を語る」(河東碧梧桐著、岩波文庫)

子規という人が好きである。丸山j真男先生が「福沢惚れ」と言われる感情に近いと思う。明治以降最大の文学者は誰かと尋ねられたら躊躇なく正岡子規と答えるであろう。「くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる」は私の文学(詩歌だけではない)開眼の(と思っている)記念すべき歌であったし 、子規の著作から、短歌、俳句の詠み方 、味わい方から野球の本質に至るまで教わった。勢いがあり、それがリズムを生み出し、また論理を形成する。子規の文章を読むといつも元気が出る。詩歌の流れが碧梧桐、高浜虚子、長塚節、斎藤茂吉らを経て現在なお脈打っているのは子規という言わば一つの爆発の大きさを物語る。高校野球の四国勢の活躍も子規と無縁ではないと思ってみたりもする。
没後百年、子規好きには堪えられない本が相次いで出版された。本書と、「子規、虚子、松山」(中村草田男著、みすず書房)である。子規 、秋山好古、真之兄弟らを取り巻く明治の青春群像は、司馬遼太郎「坂の上の雲」に詳しい。本書で語られるのは、幼少より子規 を升(のぼ)さんと呼び兄事し(自らを子規宗の一人と呼んでいる)、看取るまで親密な交流のあった碧梧桐が見た等身大、生身の子規である。 「病床六尺」等、子規の著作と併せ読むといよいよ子規が近くに感じられる。

一方、「子規、虚子、松山」では 、孫弟子、草田男が子規の時代性と限界、さらにはそれをどのようにして克服するか、冷静に語っている。「悟りとはどんな場合にも平然として死ぬることかと思うとったが違っとった。どんな場合にも平然として生きていくことが悟りじゃった」という子規の言葉が紹介されているが、元気を無くしている日本人にこの言葉を贈りたい。