平成14年8月②

八月某日
親父殿の家に居候していた折の見聞である。

この家にいる時はできるだけこの親父殿の傍らにいることをつとめた。主なき時はその親を持って主となすことぐらいの礼節は猫といえども持ち合わせておる。一飯君恩を重んずというわけである

前回ご報告したようにこの御仁は奥方の介護を専らにされておるが、多忙に食い殺されるような生活を長年続けられていた積年の習い性か、突然吾輩の視界から消えてしまわれることが少なからずある。主人に代わって冠婚葬祭というのは衣服を見れば判る。しかし、狩猟民族の如く下着姿のまま箒を手にして飛び出して行かれる様を初めて見た日には滑稽だけでは済まされぬものがあった。しかもその後大旦那は決まってしばらく姿を見せぬ。

野良君なる同族がいることはこの親父殿から聞かされた。食料をめぐって同族間の争いがあることや、親父殿が如何なる理由により、どの一族を支持しているかも聞かされた。下着の箒姿はこの一族の支援活動なる由である。お前は幸せだ。捕食に時間を費やす必要が無い。あの野良君たちを見たまえ。生活時間の8割を捕食活動に費やしている。それでも満腹ではない。お前さんの半分の目方も無いじゃないか。ラ・ロシュフーコーの箴言を紐解くまでもない、これは籠の鳥と外の鳥の問題と同じで、いわば自由と安定のトレードオフの問題だ。

親父殿が贔屓筋にしておられる野良君には、その後網戸越しに何度かお目にかかった。確かに吾輩から見れば鼠ほどの大きさでしかない。これは一体どういうわけだ。明治の代にだって、隣の三毛君にも、筋向いの白君にも、車屋の黒にさえ主人がいたはずではないか。この野良君たちのような同胞は至る所にいると親父殿から聞く。ホームレスと言われる人たちとは訳が違うのだ。彼の筋向いの白君が言われたが如く、未だ「人間ほど不人情なものはない」とすれば、ヒトゲノムはこの百年何も変化しておらん。否モラルにおいて退化していると断ぜざるを得ぬのである。